日本刀における金象蔽銘とは

金象嵌で「織田尾張守信長永禄三年五月十九日義元討捕刻彼所持刀」と記録された刀が存在します。

その刀とは、「名物義元左文字」と呼ばれ、もと三好政長(?~一五四九号宗三)の所持する太刀でしたが、武田信虎(一四九四~一五七四)に遣わされ、後に今川義元(一五一九~一五六〇)が所有し、刃長二尺六すの豪壮な太刀であったのです。永禄三年(一五六〇)、義元は京へ上る晴れの舞台に自慢の太刀を腰にしたに違いなく、それを織田信長(一五三四~一五八二)が桶狭間の戦いにおいて見事に分捕ったとされています。

慶長十九年(一六一四)六月二十六日付けの片桐且元(一五五六~一六一五)が記した『豊臣家御腰物帳」には、「よしもと左文字刀慶長六年三月大御所様被進」とありますから、この時すでに現在の長さの二尺二寸一分(六十六・九センチ)に磨上げられていたようです。永禄三年に信長の手に入ってから慶長六年の間に磨上げられ、金象嵌が施されたことになります。「光徳刀絵図集成」(寿斎本)にも所載されていますから、この象嵌は寿斎によるものかもしれません。

この名刀は江戸城本丸にあって、惜しくも明暦の大火(振袖火事・一六五七年)で焼け身となりましたが、かろうじて象慨は残され、当時の面影を偲ぶことはできます。現在は再刃されて、京都建勲神社に納められています。

「義元左文字」を「今川義元由緒の刀と図録に掲載したのはけしからん、織田信長の由緒としなければならん」という意味のようでした。

刀剣の茎に金象嵌銘を入れるようになったのは、桃山時代からとされていますが、『埋忠銘鑑』によりますと、天正十三年(一五八五)十二月日に「江本阿弥磨上之(光徳花押)所持稲葉勘右衛門尉」というのが最初期の象嵌だそうです。